ラーメン夜明け前・歴史に想いを馳せるVol.3(コラム)

ラーメン聖人

2009年09月06日 21:45

《ラーメン夜明け前・歴史に想いを馳せるVol.2より続き》



これの全てを鵜のみにするには読んだ文面が多少偏り過ぎているような気もするが、葦原が生い茂る小さな漁村でおおよそ現代の東京、いや栄えた江戸文化からははなはだ遠いイメージの土地だったということは十分に想像できる範囲である。

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実際のところ、江戸を選んだのが家康だったのか、いや秀吉より江戸を選ばされたということだったのかはいくつかの逸話があるのだが、ラーメン史からみれば、これはどちらでもよいことで、要は家康が江戸の地に幕府を開いたことが重要になってくるのである。

というのも江戸が大都市になり得た理由は、単に政治の中心だったからというわけではないよである。

( ̄ー+ ̄)

あえて江戸を本拠地としたのは、関東平野という広大な後背地と水運の便に恵まれ、将来への発展の可能性を秘めていたことに着目したからに他ならないのでないだろうか。

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因みに、『家康はなぜ江戸を選んだか』では、この解釈については否定的に書かれているのだが‥

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まぁ、あくまでもオイラが個人的に心地よい解釈、もしくは一番多くの書物に書かれてあった説を紹介させていただくことにしているわけで‥

どちらにしてもオイラ、たしか江戸幕府はこの地で264年もの長い間続いたと記憶している。

これも江戸に幕府を開いた家康に先見の明があったということになるのではないだろか。

( ̄ー ̄)v

現に江戸時代になると多くの名物や特産品が生まれている。

町の経済は発達しながら町人文化も発展してきたようだ。

その中から「外食」が生まれてきたのだ。

!(b^ー°)

『江戸の料理と食生活』原田信男・編(小学舘)では徳川家康をもてなした織田信長の饗応料理から庶民の食事、人気のメニュー、台所事情まで当時の料理文化や食生活が写真や浮世絵、風刺画をとおして眺めることが出来る。

(* ^^ *)

外食の業態としては大きな料理屋あったようだが、これは最初から一般大衆的というわけではなかったようだ。

先ず、外食文化の先駆けとなったのは、江戸の食品流通の最末端に位置する「振売り」の存在である。



鮮魚や惣菜、豆腐や調味料、野菜、菓子などの生活必需品をかついで売り歩く振売りは、ひとりが扱う商品は限られていたが、全部をまとめてみれば、さながら現代のコンビニエンス・ストアが向こうから歩いてくるような感じであろう。

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この中には、鰻蒲焼や蒸芋、蕎麦、汁粉などの煮売り、焼売りと呼ばれる人々もいたというから、もっぱらチャルメラのような移動屋台の役割もはたしていたようである。



記述には、江戸は単身男性の比率がたいへん高い町だったとある。

その為、簡単な食事が求められていたそうだ。

文政6年(1823年)に書かれた岡田助方の『羽沢随筆』によれば、「江戸の町中に住む者は、三度の食事について自分で炊事をしなくてもまに合ってしまう。炊き上がった麦飯を売り歩く者もいるし、調理ずみのおかずの類を売り歩く商人もいる。」とあり、刻んだり皮をむいた野菜類が売られている情景が描かれている。

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現代のスーパーで売られている「仕込み済み野菜パック」といったところだろうか。

拡大を続け、常に地方から新しい人々が流れ込んでくる当時の江戸の町。

これまで書いてきた文章から振り返れば、その成立はよその土地から移住して来た大勢の人々の集まりだったというような想像ができるのだ。

これは、現代の大都市・東京と重なるものがあると気づかされるオイラである。

振売りはその人達が日々の糧を得る為にもっとも手軽に始められる商売であり、買い手にとってもたいへん調法なものだったに違いない。

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やがて「振売り」から「屋台」の時代に代わり、外食産業は飛躍的に普及してゆくのである。

《ラーメン夜明け前・歴史に想いを馳せるVol.4に続く》
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