2009年12月14日
屋台ラーメン カップ(マルタイ)毛利空桑記念館Vol.1
大分鶴崎高校の裏手に『空桑 思索の道』という石碑が立っているのをご存知だろうか。
( ^ ^ )

毛利空桑(もうり くうそう)は、江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍した豊後国大分郡高田郷(現在の大分県大分市鶴崎)出身の儒学者であり教育家、尊皇論者である。
その石碑の前には、県指定史跡となっている旧宅や塾跡、それに隣接して建てられた遺品館が、1985年(昭和60年)に改築され、『毛利空桑記念館』、として整備されている。

何気なく通っていた小道だが、ふと目を向けると意外に近くにそんな偉人に縁がある場所が存在したんだなぁ‥と、あらためて気づかされる。
( ^ ^ ;)
郷土の偉人の業績を記念して設立された施設。
こりゃ、県民としては知っておかねば!
!(b^ー°)
本日は、こちらにふら~りと入館させていただくことにした。
記念館は3つの建物からなっている。
正面にあたる遺品館には、空桑の著述、詩作、生活用品などの遺品を展示・収蔵されている。
空桑の刀の模型や鎧兜などは堂々とした威厳を放っていた。
茶器や膳などの生活用品は、意外に質素なもののように目に映るのはオイラだけ?
(^。^ ;)?
ショーケースの中の数々の遺品を拝見させていただいていると、ご親切な館長さんが自らいろいろと案内していただけることになった。
遺品館の直ぐ隣に建つのは知来館(ちらいかん)。

安政4年(1857年)、今から152年前に建てられた、空桑の塾である。
門下生は890人を数え、遠くは京都や岐阜からも訪れていたということだ。
14歳の時に、豊後国速見郡出身で高田郷で塾を開いていた脇蘭室(わきらんしつ)に入門。 続きを読む
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毛利空桑(もうり くうそう)は、江戸時代末期から明治時代初期にかけて活躍した豊後国大分郡高田郷(現在の大分県大分市鶴崎)出身の儒学者であり教育家、尊皇論者である。
その石碑の前には、県指定史跡となっている旧宅や塾跡、それに隣接して建てられた遺品館が、1985年(昭和60年)に改築され、『毛利空桑記念館』、として整備されている。

何気なく通っていた小道だが、ふと目を向けると意外に近くにそんな偉人に縁がある場所が存在したんだなぁ‥と、あらためて気づかされる。
( ^ ^ ;)
郷土の偉人の業績を記念して設立された施設。
こりゃ、県民としては知っておかねば!
!(b^ー°)
本日は、こちらにふら~りと入館させていただくことにした。
記念館は3つの建物からなっている。
正面にあたる遺品館には、空桑の著述、詩作、生活用品などの遺品を展示・収蔵されている。
空桑の刀の模型や鎧兜などは堂々とした威厳を放っていた。
茶器や膳などの生活用品は、意外に質素なもののように目に映るのはオイラだけ?
(^。^ ;)?
ショーケースの中の数々の遺品を拝見させていただいていると、ご親切な館長さんが自らいろいろと案内していただけることになった。
遺品館の直ぐ隣に建つのは知来館(ちらいかん)。

安政4年(1857年)、今から152年前に建てられた、空桑の塾である。
門下生は890人を数え、遠くは京都や岐阜からも訪れていたということだ。
14歳の時に、豊後国速見郡出身で高田郷で塾を開いていた脇蘭室(わきらんしつ)に入門。 続きを読む