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2009年09月07日

ラーメン夜明け前・歴史に想いを馳せるVol.4(コラム)

《ラーメン夜明け前・歴史に想いを馳せるVol.3より続き》

屋台といっても中には屋根のないものもあり、車はみなついていなかった。



大名行列の時などは折り畳んで一時移動したとあるから、実に簡易的なものだったのだろう。

(^。^ ;)?

この屋台の発展については、「火事は江戸の華」と言われたように火事との密接な関係があった。

大量の労働人口が流入し、外食の需要が急速に高まったのだ。

しかしながら、これについて書くとえらく長くなってしまう為、この一行で省略させていただこう。

(^。^ ;)?

屋台は「火災予防の為、営業店の煮炊きは屋外でせよ」という御触れにもかなったものだったのだろう。

初めの頃は、「四文屋」と呼ばれ、おでん、天ぷら、いか焼きなどすべて四文均一だったと書かれた本があった。

( ^ ^ )

四文の価格についてはよくわからないオイラだが、この四文屋が手軽だったという当時の時代背景から想像するに、決して高額なものではなかったと推察させていただこう。

(≧∀≦)ゞ

そのうちに屋台では、田楽、にぎり寿司、鰻蒲焼き、天ぷら、ウドン、蕎麦と出す品の種類も増えていったのである。



貞享3年(1686年)には、「ウドン、蕎麦など何によらず、火を使う移動販売を禁止する、一定の場所で商売をする場合はかまわないが、火の元には十分に注意をするように」、と御触れ書きが出ている。

火事対策の御触れ書きではあるが、小規模な移動屋台がいかに多かったかということがわかる。

これら屋台が江戸の町民文化と味を支えたといっても良いのかもしれない。

( ̄ー ̄)

屋台についても調べたあれこで書きたいことがあるのだが、直接ラーメンには関係してはいないのでこれくらいにしておくことに‥

( ^ ^ ;)

やがて、天ぷら、寿司、鰻などが比較的早く店売りに移行したのと違い、蕎麦の屋台売りは長らく続いたようだ。
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Posted by ラーメン聖人 at 17:59Comments(4)ラーメンコラム・他